共感性羞恥という新語があります。
他人の様子を見ていて「うわ……もう過ぐこの人恥をかく見てられない」
となるアレのことです。
心理学においては、これに限らず恥について多角的に研究されており、端がもたらす判断の変化、行動の変化について考察するもの。
統計を取るものなど様々あります。
共感性羞恥は日本においては学術的概念がまだ存在しておらず、他の恥の研究と合わせて語られる事が多いです。
今回はそんな共感性羞恥について触れていきます。
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共感性羞恥・または観察者羞恥とは
共感性羞恥とは、観察対象の人物が恥をかくというシーンに遭遇した時に、自らもいたたまれなくなってしまう状態の事。
ちなみに正式な心理学用語ではなく、直訳が広まったケース(当記事のカテゴリーは心理学にしてます)。
「観察者羞恥の方が正しいのでは?」
という言い方もありますが、両方が日本語で権威性を獲得するに至っていません。
さて、そんな経緯が微妙な用語、共感性羞恥の例をちょっと挙げてみましょう。
などなど、上の例を見て「あっ……」っていたたまれなくなったら、それが共感性羞恥ですね。
日本人は10%程度当てはまるというらしいのですが、これは医療機関のアンケートではなくTVのアンケートなので信憑性が何ともです。
参考にその時のニュースを。
この様に、皆『アレ』のことだと思っているけど【比較的新しい俗語】というのが正しい認識ですね。
先に語った通り、日本語では直接的な名前のついていなかった概念です。
共感性羞恥自体に関してはこの様に【想起させる観察対象】と【感じる自分】で成り立っていることになります。
重要なのはこの【観察対象】と【自分】の【関係性】がどの程度あるのかということです。
身内の恥
身内の恥を晒すな、という言葉があります。
これは身内の恥を世間様に見せるべきではない、自分たちから言うべきではないという言葉のままの意味ですが、共感性羞恥にちょっと置き換えてみましょう。
例えば親兄弟の中で普段は温厚ですが、一定の範囲をプッツンしてしまうと非常にヒステリックな面を見せてしまう人物が居たとします。
これを第三者に見られた時。
または、その話が広まってしまった時、我が事の様に恥ずかしくなるのではないでしょうか。
この様に【恥】を感じるプロセスは、自身と対象の関係性に深く密着しています。
パートナーがやってしまった失敗は「恥ずかしい!」「目を背けてしまいたい!」と思ってしまう事があるかもしれません。
しかし、赤の他人がこれらと似たようなことをやった時に反応する人は少ないのです。
恥の研究 公恥と私恥
恥の心理的作用の研究は近代に始まっており、特に1980年代から臨床心理の分野においても重要な位置づけではないかと、言われています。
『恥』という概念が発火するには、当然『他人の目』といった第三者の存在が必要ですが、共感性羞恥はどちらかというと自身に依存している部分があります。
また『恥』には外的要因、特に他人からの評価を気にする『公恥』と自身のできない事に対する情けなさを恥じる『私恥』という考えがあります。
興味深い実験として2011年に愛知県で行われた実験では300人の生徒サンプルを集めて「想定する場面ごとに恥ずかしいと思うか?」という実験が行われました。
この実験でも結果は「自分自身がそのシーンを恥ずかしいと思うか」が明確に結果に表れており、さらにシーンの内容によるともしています。
例えば【友人が恋人といちゃつく】という場面において羞恥を覚える人は少なく。
【プールサイドで行われる罰ゲーム】では、何をされるかというのが想像できてしまう為羞恥を覚える人が多いといった結果です。
つまり『過去に経験していて悲しい結果が予測できる=自分自身も恥ずかしいと思う』事が、こういった感度を上げるものだと報告されています。
恥の概念が難しすぎる
今回は正式な心理学ではない共感性羞恥・観察者羞恥をとりあげました。
用語から考えると何とも難しいですが、覚えてもらいたい事はたった一つ。
大体のケースが、自分と関連性があるか?で恥を覚える。
という事です。
そして、恥を覚えるというのは行動の変化に大きな干渉をする為、プラス材料にもマイナス材料にもなり得ます。
しかし、他人はあなたのことを思っているほど見ていないのです。
少し話は逸れますが「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とも言います。
他人事で「恥ずかしい……無理」などと思っていたら、肝心の自分のことでも結構な機会を恥の為に逃して損をするかも、位に思っておくと少し人生がアグレッシブに動けるようになるかも。
羞恥心をうまくコントロールして、要らない時は捨てる。
節度が欲しい時はちゃんと恥を持った心と相談してみると、物事がうまくいくかもしれませんね。
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